墓を荒らす

ICUに数日、精神科閉鎖病棟に半月ほど入院したことがある。

ICUでは骨折のためにほとんど動けず、風呂に入れないのがとにかく嫌だった。口内に傷があったので食事も固形物のない、ほとんど味のしないもの。

研修医の先生と少し仲良くなって、暇を持て余しているだろうと20世紀少年を貸してくれた。回診のたびに新しい巻を3巻持ってきてくれる。気を遣ってくれていたのだろう。食事の時間もないとぼやいていて、私が飲む気の起きなかったカロリー補助飲料をこっそり持ち帰ったりしていた。

ICUの看護師たちは若く、気さくに話しかけてくれた。体を拭いてくれていたときに「きれいにパーマかかってるのに、傷のとこ切られちゃってるね。もったいない」と声をかけられたことが妙に印象に残っている。

 

精神科閉鎖病棟は不思議な場所だった。二重の扉で隔離された病棟。真っ白なシーツ、眠剤と安定剤で平坦な思考、ただベッドの上に居るだけで流れていく時間。

 

談話室はナースセンターの前にあった。椅子とテレビと公衆電話に、お湯も出るウォーターサーバ。アクリル板のようなもので仕切られた喫煙スペースも併設されていた。

病棟内での話し相手は主に二人。二十歳くらいの金髪の女の人と、三十代のげっそりした男の人。私が入院する前から仲が良かったようで、若い人は珍しいと声をかけてくれた。二人がよく煙草を吸っていたから、当時十代だった私もしばしば喫煙室に潜り込んで看護師に怒られていた。

女の人は見るからにヤンキー。クラブに行くのが好きで、ラップも少しやると話していた。ODで入退院を繰り返していて、ICUの看護師とも顔見知りになるくらいだったらしい。初対面のとき私もICUに居たことを話すと「看護師の〇〇ちゃん元気だった?」なんて聞いてきて、すこし面食らった。ひとに明るく振舞う人。

新婚でまだ小さい子供が居る。同居している姑は、悪い人ではないけど嫌い。毎日17時頃、金髪で眉毛のない、やさしそうな旦那さんが作業着でお見舞いに来る。再放送されていた花より男子を見るのがここでの趣味だと言っていた。

 

男の人は11階から飛び降りて入院。骨がたくさん折れて、最近やっと歩くリハビリを始められたらしい。彼は話好きで、よく笑う。いろんな話をしてくれた。

別の病院で入院していたころ、かわいい女の子が自分を好きになった話。看護師の誰々さんが気になってる話。奥さんが妊娠中だけど、自分の自殺未遂が原因で離婚を迫られている話。

ある日、彼と奥さん、それぞれの親であろう年配の面々が集まって、病棟内の面談室に入っていくところを見かけた。こんな場所で話し合わなくてもと少し奇妙な感じがしたけれど、そんなものなのかもしれないと思った。親族が帰ったあとも彼はいつも通り笑っていた。ひょうひょうとしている人だった。

 

女の人が談話室にいるとやってくるおじいさんも居た。ダイソーなんかで売っている雑学やクイズの本を手に、それについて話をするのが好きなようだった。たぶん躁だったのだろう、話し出すと止まらないおじいさん。女の人は話に付き合ってあげるときと、すぐに部屋に戻るときがあった。男の人は「お互い患者だからね」と言っていた。その通りだと思った。

  

リハビリセンターには気のいい理学療法士のおじさんが居た。若いやつが来るのは楽しいけど心配だよと言いながら、夜学に通った自分の人生の話をしてくれた。彼なりに私に何か伝えたかったんだと思う。人生楽しめよと声をかけてくれた。とてもいい人。

4月の頭だったからか、看護学校の学生も研修に来ていた。私よりいくつか上の学生さんとすこし仲良くなり、大変だろうにどうして人の面倒を見る職業を目指すのか聞いた。「おじいちゃんやおばあちゃんが好きだからかな、すごくかわいいんだよ」と教えてくれた。

 

最初の数日だけ個室だったけど、ほとんどは大部屋に居た。

退院する少し前、同室の男の人がトイレで話しかけてきた。それまで一度も話したことのない、40手前くらいの人。

「ずいぶん若いみたいだけど、どうして入院しちゃったの?」「んー、ちょっと飛び降りちゃって」「そっか、僕は農薬を飲んだんだ」

会話はそれで終わり。何日かあと、奥さんと幼い子供がお見舞いに来ているのを見かけた。そこにいるみんな、やさしくやさしく笑っていた。

 

それぞれに真実がある。何もかもにとってやさしくは在れないのかもしれないけど、すこしでも多くの人があたたかい光の中に居てくれるように願う。

「私は古い駅に向かっていた」

大学時代の友人とお酒を飲んだ。2軒目まで快調に飲み続けて友人と笑顔で別れた後、駅のトイレで酔いつぶれる。終電が無くなるまで二時間近く立ち上がれなかった。

気持ち悪くて息切れがして、ひどい状態だった。駅員さんが駅を閉める最後の見回りで声をかけにきた。そのときには少し回復していたが、とにかく情けなかった。洗面台の鏡に映る自分の真っ青な表情がひどく滑稽だった。私は何をしているんだろう。私は一体何を。

 

画用紙に色がひろがる夢。緑色と水色が円形ににじんでいた。余白はほとんどなくて、端の方は真っ黒に塗られている。

完成間近だったのに、黒い部分に水をこぼしてしまった。水は絵の具を溶かすことなく、紙からはみ出すようにして広がっていく。せっかくの絵が台無しになってしまうと素手で水をぬぐおうとするが、水は黒色をすべっていく。光の加減か濃さを増していく黒は、ぬらぬらと海藻のように漂っている。

やがて縁へとたどり着いた水は机の角からすべり落ちていく。私は「ああ、もうだめなんだ」と思った。絵がだめになったわけでもない、水がこぼれたことが取り返せないわけでもない、ただ、だめになってしまったんだと思った。

 

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ここまで書いていたのが12月の末。半年近く放置していた。画用紙の夢のこと、もう覚えていない。

言葉も出なくなってしまったから、昔聴いていた曲に、昔の私を思い出させてもらう。

嫌いな季節の話をしなくなった。嫌うほどの理由なんて本当は無かったのかもしれない。

 

https://youtu.be/xMznxdmLne4

 

ワダツミの木。別人の作だということは知っていたけれど、元ちとせが歌うものしか聴いたことが無かった。訃報に触れたのは私が高校生くらいの頃だったろうか。彼について何も知らなかったのに、何故かニュースを見たことをよく覚えている。

何かの折にこの動画と出会って、久しぶりに人の歌う姿に衝撃を受けた。なんて深くて広いみずうみを持つ人なのだろう。動く視線の先に、何を見ていたのだろう。

「ここに居るよ、あなたが迷わぬように。ここに居るよ、あなたが探さぬように。」

純粋すぎて言葉を失くす。

 

悲しみも苦しみもずいぶん薄まってしまって、視界の中の何にも焦点を合わせずに茫漠とした世界を生きる。

あなたの明日が少しでも辛くないものでありますように。

カメはクラゲを食べる

ライブハウスで見かけた少年のことをずっと忘れられないでいる。

数年前、大好きなバンドのワンマンライブを見に行ったときのことだ。

オープニングアクトはなんだかよくわからない英詞で歌う地元のバンドだった。演奏が終わり舞台を降りたボーカルは、外国人の恋人のもとへ急ぎ足で向かい、抱きつくようにしなだれかかる。
気持ち悪くなり、灰皿のあるバーカウンターへ移動し煙草に逃げる。聞こえてくるのはちょうど流行り始めた頃だったInstagramの話、Twitterの話、探り合う男女。
ああ、私の嫌いなライブハウスだ。

そんなことを考えているとき、場に似つかわしくない、15、6歳の少年が目に留まった。
照明もほとんど落ちていたので容姿についてはあまり記憶にないが、それでも怯えているような雰囲気を感じ取れた。
どうしてここへ来たのだろう、よほどこのバンドが好きなのだろうかなどと考えていたが、じきに事情が見えてきた。
彼のもとへ中年の男性が歩み寄り話しかける。どうやらこの男性に連れられてきたらしい。少年の親族だろうか、50歳前後で、なんだか洒落た装いをしていた。
「どんな感じ?すこし音が大きいかな、じきに慣れるよ」
快活に話しかける男性に対し、少年はなにも返さずうつむいているようだった。男性は少年のもとを離れ、馴染みであろう周囲の客と話し始める。

場の雰囲気へ怯える様が昔の私を見ているようだったから、なんとなく、この少年は普段引きこもりがちなんじゃないかと思った。
少年が大好きな音楽を聴くために、勇気を出して男性を頼ったのだろうか。もしかすると曲を聞いたこともないのに、少年に外出する機会を与えるために男性が誘ったのかもしれない。
背景についてあれこれ想像を巡らせる。転換は10分程度のものだったが、時間が経つにつれ少年はうつむくというよりうなだれるような様になっていく。この場における少年唯一の拠り所である男性は知人との会話に夢中だ。まずいと思った。

メインのバンドが1曲目を鳴らし始める。
やさしい音楽が始まって少しして、少年はそっとライブハウスの防音扉を開け、早足で抜け出していった。
ああ、やっぱり耐えられなかったんだ。そりゃそうだろうと思った。
数曲が終わった頃、中年男性はようやく少年の姿が見えないことに気づき、慌てた様子で出ていった。
繁華街のど真ん中で、少年はどんなことを考えているだろう。彼は男性と何を話すのだろうか。

ライブは素晴らしかった。好きなバンドの鳴らす音楽は、優しく鮮やかでひんやりとしていた。
少年のことを気にしていた私も、じきに音楽に身を任せることができた。
ライブも終盤、外国人がスマートフォンを高々と掲げ舞台を録画し始める。後方のバーカウンターではバカみたいな男女の、演奏に負けないくらいの笑い声。
少年のことをぼんやりと考える。今ここで鳴っている音楽は私を救うが、彼の感情を救うことはなかった。
いつか音楽が彼を救うとして、彼を救うその音を知りたいと思った。

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虚勢を張りながら必死で生きている人のことを美しく思う。
海を漂うぶよぶよした半透明の塊はたどり着いた浜辺でゴミにまみれる。プラスチック片を腹の中にためるクジラ。カメの血。