高く遠く

咳をする人の背中に手を当てる。手を当てながら、私の手はその人に咳を出させている部位や内臓までは届かないから、あんまり意味はないんだろうなと思う。

それとおなじように、いくら話をしたとしても、その人がこれまで過ごしてきたすべてに触れることはできない。

ただ、いま咳をしている人の背に手を当てる。いまのその人が少しでも辛くないように。

そのときどきにしか生きられないのなら、そのときどきに向き合っていたい。

怖くても攻撃する必要は無い。誰かを殺さなくても生きていていい。

 

どれだけ辛く感じても、全部壊れてしまうことはそうそうない。壊れてしまうとすれば、それは私が壊してしまうとき。切迫した気持ちを巻き起こすほどの熱量はずいぶん前に失ってしまった。

さまざまをまともに受け止めることができなくなって、私はずっとずっと遠ざかっていく。

 

肩の辺りを虫が這っているような感覚が無くならなくてひどく不快だ。

 

言葉が気持ちを吸い込み過ぎて文字からインクが流れている。恥ずかしくて指で隠そうとしたら擦れてにじんでしまった。なんにもうまくいかなくて情けなくなる。みんなができていることができないのは恥ずかしいけど、歳を重ねるにつれ慣れてきた。私はこんなものなのだ。

消しゴムをかけすぎて穴を空けてしまっても、新しい紙は用意してもらえない。最初にもらった紙だけで済ませなきゃいけないこと、教えておいてほしかった。

 

彼岸と此岸で違う地平を見る。苦しんで死ねと免罪符のように自分に言い聞かせる。高く遠く、高く遠く。