底を見せる

害の無い球体の中に住んでいる。

私を傷つけるものは何もない。真っ白でやわらかい壁に包まれて、穏やかに過ごしている。たまに昔あった嫌だったことを思い出して、馴染みぶかい落ち込みの中で膝を抱える。私を傷つけられるのは私だけだ。

ずっとずっとそうしている。

 

人はそれぞれの中に、水をたたえる場所を持っている。

それはみずうみくらいの広さ、深さのものかもしれないし、海くらい広いのに、水たまりくらいに浅かったりするかもしれない。すごく狭くて深い、穴のような場所を持つ人もいるだろう。

たたえている水の感触や温度も気になる。透明度や、光を返す色だって違うだろう。水に手をひたしてみたらなにか分かるだろうか。泳いでみたら、潜ってみたら。

水たまりの底はどうなっているだろうか。なめらかでやわらかい砂泥の人もいれば、足をつくのも怖いような、ごつごつとした岩場で埋まった人もいるだろう。

底をさらうと、何が出てくるだろう。私たちの底には、何があるのだろう。

 

だいたいのことが自分とは関係が無くて、それでもすべてと関係を切ることは難しい。だれのことも全然わからない。私は何も見えていない。

ようやくしっかり切り離された自分と他人の、つながりのあまりの心細さにめまいがする。怖い怖いと思い続ける、怖い怖いと言い続ける。いつまで続くのだろう。ずっと人が怖かった。

 

少し寒い朝の電車の中、何も考えられないまま揺られていた。考えなければならないことも、考える前にしなくちゃいけないこともたくさんある。でも、もう全部どうしようもなくなってしまったような気がして、流れていく景色だけを眺めている。

いつまで妄執のような思いにとらわれ続けるのだろうか。生きていること、生きていくこと、おとぎ話や絵本を読んでいるような感じがしてしまう。私はただ流れていく、どこまでもどこまでも進んでいく。

大きな音で歌の無い音楽を聴く。娘のために作ったとどこかで読んだことがある、とてもやさしい曲。音から感じる悲しみも苦しみも、すべて私のものだ。

意味が分かりそうで分からない歌を宝物にする。私の隙間に埋まるようにした。

 

井戸は枯れたものしか見たことがない。もう悲しい気持ちにはなりたくない。重ならない言葉が宙に浮いて、私の方をじっと見つめている。